2005年3月3日

「通」文化の弊害

昨日仕事で、エンタテインメントについて話していたとき、こんなことについて思い立ちました。
最近のメディアの傾向として、「通」であることが情報の価値を高める条件になっていることが多いですね。「通が教える…」「誰も知らない…」「雑誌には載っていない…」「あなただけ…」「初…」などの言葉が踊り、簡単な方法で「通」であることが楽しむことの条件のような紹介がすごく多い。雑誌やネットさえもそれを競い合っています。
でも、ちょっと待てよ。少なくとも「通(もどき含め)」に教わらなくちゃいけない人たちにとって、それは幸せなことでしょうか。
昔、NYに行った時にマジソンスクエアガーデンでNBA(アメリカのプロバスケット)の試合を見ました。カードは地元ニックス対ロサンゼルスレイカーズという強豪同士の好カードだったのですが、蟻が動き回っているような試合は、はっきり言ってファンではない僕にとって面白いものではありませんでした。その後アメリカを巡るうち、カンザスシティで知り合った黒人の青年と学校の体育館のようなところでカンザス大学とどこかの試合を見ました。狭い会場では選手の靴の音が響き、ダンクというものを間近で見ることができました。隣で酔っぱらったオヤジがビール瓶を割り、カンザス大が得点を決めるたび皆で肩を組んでウエーブをした時、僕は初めてバスケットボールを面白いと思いました。マジック・ジョンソン(当時のレイカーズのスーパースター)はどこにもいませんでしたが。
今では僕はそこそこのNBAファンなので、ニューオリンズとシャーロット(共に弱いし、スターも少ない)の試合を見ようとも思わないし、初心者にも勧めないでしょう。逆にレブロン・ジェームス(M・ジョーダンの後継者と言われている若者)を見るためにスタジアムの後ろの方に陣取るかもしれません。
でもそれは初めて見る人にとっては幸せな初体験じゃないように思います。人が好きになるきっかけはカンザス大の体育館のような体験の方が絶対多いはずです。
歌舞伎でも、オペラでもメディアや「通」がこれはダメ、これならいいと勧めます。多少の音楽好きなら、ロックコンサートの最前列は音が良くないのでPAのあたりがいいと勧めるかもしれません。でもそれは初心者の「幸せな初体験」を奪っているのでしょうか。汗がかかるようなかぶり付きで見ることの方が、だいたい「3日目あたりが一番いい演奏だ」なんて言われてそれにこだわるよりずっと幸せなのでは。「通」至上主義の今の文化が、文化の広がりを奪っていないか、そんな風に思います。
それは送り手側にも繋がります。アメリカでは日本の何倍もの巨大なコンサートがある代わりに、同じアーティストが地方のちょっとしたライブハウスに出演することもよくあります。幸せな体験に会う機会が日本よりよっぽど多いんじゃないでしょうか。懐の広さの違いがエンタテインメントのスケールの違いに繋がってはいないでしょうか。

投稿者 Papan : 02:27 | 日常

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